昭和四十八年九月二十二日 朝の御理解
御神訓 信心の心得 「信心は本心の玉を磨くものぞや」
 信心は本心の玉を磨くものと。果して沢山の信奉者がありますが、その信者の一人一人が信心は本当に心の玉を磨くもんだと気づいて、そこに焦点を置いて信心の稽古をしておる者がどのくらい居るだろうか。
 本当に本心の玉を磨かして頂く、材料はいっぱい自分の周囲にいっぱい。それは自分を磨く材料と一つもしない、。改めて私は思いますね。
      ※      ※      ※      ※      ※ 昨日福岡の大森さんが毎日、日参りがあっております。私は、今日永い間御神縁を頂いて、お参りをさしてもらっております。
 いろいろと随分おかげ頂いてまいりましたが、しかもお参りをして、御教え、御理解も頂かしてもろうておりましたが、最近、それもごく最近、信心というものは教えを頂いて、教えを実行することだと気づかせて頂きましたと言っております。
 私は、そういうのが多いのじゃなかろうか、それは、勿論それでおかげ受けてきてここに毅然として、気づかせて頂くところから、本心の玉を磨くものだということになるわけです。
 けれども、気づかんなりに、だが、気づかんなりに経って行く人が沢山あるわけです。只、信心とはおかげを受けるものだというふうに、果して今日の御教えを頂かしてもろうて、その御教えによって、今日は本気で本心の玉を磨かせてもらうぞと、その事をもって信心の稽古をさせて頂くぞということが、本心の玉を磨くことが、焦点であって、はじめて信心の稽古になる。
 参った、拝んだ、御教えを頂いたというだけではいけん。もう、大森さんが合楽に御神縁を頂かれて、やはり十何年になるでしょうと思います。
 はじめて教えを頂いて、その教えを守るということ、言うことに気づかせて頂いた信心とは、そうだと気づかせて頂いたとこう言っとられる。
 お互い本気でね、信心とは、それこそもう本心の玉を磨くものぞや。日々の改まりが第一だと、もう随分頂いて、まあいうならその事ばっかり頂いてるけけれども、今改めて本心の玉を磨くものぞやと頂いて、果して本心の玉を磨く事が、いわば心を磨くということが信心だと。
 それに気付いて、それに取り組んでおるという人は沢山は居ないのではないか。
 知ってはおるけども、それに取り組んでは居ないいのではないか。だから如何にお参りしても、いわゆる御祈念をさして頂いただけでは、本心の玉は磨かれない。
 御教えも頂いただけでは、本心の玉は磨かれない。御教えを頂いて、その教えを実際の問題の上に頂き、その問題が、まあ、いうなら難儀な問題といたしましょうか。 苦しい問題といたしましょうか。その難儀な問題、苦しい問題をもって本心の玉を磨かしてもらう。なら、その苦しい問題で、難儀な問題で、どうする事が本心の玉を磨く事になるか。
      ※      ※      ※      ※      ※ これも昨日、安東のお父さんがお参りになってからの事でした。一カ月後に控えております、大祭、せめて、大祭まで、もう神様がおかげは限りなく下さる。
 もうそのおかげを頂くということがね、もう本当に間違いなくおかげを下さるという、体験はいっぱい積んできた。
 もう、本当にとりわけそれは安東さんの場合なんかは、金銭のお繰り合わせ、もう安東の家のお仕事を知っておる人であるなら、知っておる人である程です、あんた方はよう、そればってん、おかげ頂くなというくらいにおかげ頂いてる。
 と言うのは、例えば金銭なら、金銭のおかげにすると、もう大体はもう、いうなら潰れなければならんはず。本当言うたらもうやって行けれるはずはない。
 それがやはりギリギリではあるけれども、お繰り合わせ頂いておるとこう言う。永年それがお父さん、最近のお道の信心になっていよいよそれをおかげと実感して見えられたわけです。
 為にはそれだけの修行もわかればわかるだけしてきた。なさっとられる。先日から腫れ物がして座るにも座られんような状態であった。
 いよいよいけませんから、お取次頂いてお願いをした。自分をお参りをしてお願いをする。昨日も家内がお届けをしてくれるそうですがと、昨日の事ですから言っておられる。もう以前の自分であったら、もうすぐ医者だ薬だ、何とかいう注射射ちゃすぐ治るというてくれる人もあるけれども、そういう間違いのない神様を感じてきておるのですから、これは金銭の事だけではない。
 五体の上にでもやはり、一つのそれは苦しい、痛いけれども、神様のおかげでとこう思う。それから、家内がお届けをしてくれましたから、で、昨日お参りをして見えた。その事をお母さんがお届けをしておられます。
 丁度、工場に通うて来ておられる職人の方が、先日から同様な腫れ物が出来て難儀した。どこどこ病院に行ってお薬を貰ってくる。それがよく効いたから、どうぞ御主人、これをあなたも、その薬が残っておるから、あなたも使うて下さいと、わざわざ持って来て下さった。
 持って来なさったけれども、いわゆるそれは、只、なら御親切は有難うございますと言うてこう頂いてはおるけれども、それをつけようという気はいたしませんでしたが、家内がお届けをしてくれた、その翌日からおかげでこうして座られるようになったと言うて、昨日お礼に出て見えてからの話なんです。
 そういう神様のおかげの間違いなさというか、神様にお願いをする。お縋りをするという事がです、本心の玉を本気で磨こうという気にならなくっても、やはり一生懸命お参りをする。
 一生懸命お願いをすると、まあおかげを頂いてきたという事実がね、けれどもそれは只、痛いのが治ったっというだけであり、さあどうにも出来ない金銭の行き詰まりが、只お繰り合わせ頂いたというだけであって、それが本当のおかげに繋がってない事に気が付いた。
 だから、この大祭の一月、親先生のおっしゃる水も漏らさぬような受けものをつくれとおっしゃるが、結局神様は限りなくこういう間違いなさで、安東の店の上にお繰り合わせは下さってあるのですけれども、私の受け方が粗末でありますために、いうなら、受けものが破れております為に、おかげが受けられない事がわかった。
 私は信心とは、それがわからなければいけないと思う。ですから、せめて大祭まの一月間なら一月間だけはもう、いよいよ、心に神様を頂き続けさして頂いて、その受けものをつくることに本気にならせて頂きたいというお届けがあったんです。
 成程こちらは腹一つでです、さあ医者だ薬だと人も言うてくれるし、わざわざ、親切に薬もって来て下さる方もあったけれども、そこに自分の腹を決めさして頂いて、薬の方に手も出そうという気も起こらなかった。
 そしたらおかげで今日は、こうして座られておるとこういうおかげ、痛い痒いのことから、又は金銭の難儀な問題から、又は昨日話した人間関係の問題から、それはもう本当に不思議な不思議なおかげを頂いておると。
 先日からも工場に通うて来ておられる方達が五人か六人が一緒に辞められるというような事があった。
 それは困る、小さい工場で五人も一緒に辞められるのはいよいよ困るんですけれども、そのことを夫婦でお願いに来たとき、先生から頂いた御理解が、臭いぞ、臭いぞ元も絶たなければというテレビのコマ-シャルの何か文句、それを頂いたで帰った。 難儀がこうしてあるということ、困ったこと、困ったことと、只、困ったからお願いします。只、困ったからお願いします、困った、困ったというだけでなくて、根元から絶たなければ、駄目だぞと頂いて、さあ根元から断つということは、どういう事かもよくわからないし、いや、朧気ながらわかっちゃおるけれども、なかなかその、改まりは出来んのじゃけれども、せめて今日から一つ、俺んところでは、夜の御祈念を家族中でするということは、今までしてきた事がなかった。
 だから自分のお願いのとき拝むだけのことじゃったけれども、今日からは一つ、夫婦で御神前に座って頂いて、天津祝詞、大祓い一日の御礼を申さして頂くことを、そうさせて頂こうじゃないかと、その日から実行させて頂いた。
 おかげでそういう人手不足の中に、一月締めくくって見たところが、いつもと変わらんだけの成績が上がった。
 いや、かえって成績が上がっておる。例えば、まあ仕事は沢山は出来ていなかったじゃろうけれども、いうならば、不合格の品物が出来ていない、いうなら、立派に出来ていきよる。だから、結果に於いては成績はいらない、神様の働きちゃ恐ろしいごとあるねと言うて、夫婦で話さして頂いております。
 そしたら今度は、本当の、まあ、いうなら、経験者いわゆる玄人の方で是非、お宅の方で使うてくれというて来た人がありますと言う。そしてその時に言うとられたがその後その方達が見えて、成程経験者だけに、その方達が見えて、又一段とそのお仕事が順調になった。
 そういう意味でです、もう本当に神様は間違いないおかげを下さる。こちらの腹一つだ。腹が決まればおかげになる。そういうところまではわかった。
 それではおかげは頂いておっても、只、その時、その時、まあ不思議なと思われる神様のおかげと思わねばおられないというおかげだけに止まる話であります。
 ゆとりがない。豊かにならない。いわゆるますます繁盛ということにならないということを、どういう事かと。神様はおかげは降るようにあっておるとおおせられるのに、私はのおかげの受けものが悪いためにおかげを受けもらしておる。
 せめて大祭まで、いわゆるおかげを、それこそ水も漏らさぬというくらいな気持ちでですね、そのおかげを受け止めて行きたいというようなお届けがあったんですけれども、それは元を断つということもありましょう。
 只、朝から晩まで金光様をかけ通しにかけておるという事もありましょうけれども私は、水も漏らさぬ程しのおかげということは、本心の玉を磨くという事に焦点がおかれる事だと思うです。
 不平不足を言わねばならないような、問題もある。一寸、腹の立つような問題もあるけれども、それを有難く頂いて、それを本心の玉を磨く、いうならば材料にさして頂く、もう抜け目がなく、もう決して例えば腹が立つから立てるのじゃない、一寸不平不足をどうしたかというような、不平不足の事を言うたり思うたりしないというような私は生き方というものがです、いよいよ本心の玉を磨いていく事になる。
 信心しておかげを頂いて、おかげを頂くころあいというものを体験してくるけれども、信心とは本心の玉を磨くということを、眼目としての信心という事にならなければ、本当の信心の味わいの、磨く事によって自分自身がわれながら有難うなってくるという、われながら自分の心を拝みたいような、心が生まれてくるということ。
 そういうおかげを頂いてゆく事が、私は本心の玉を磨くということを、確かにそうだと十何年の信心に、例えば大森さんの場合だってです、はじめて最近ある難儀な問題が起きて、それから毎日、お日参りのおかげ頂くようになって、今まで変わらないやはりお参りということも御教え頂くということもしておったけれども、はじめて御教えを守らして頂くとい事だと、気付かせて頂いたという事は、本心の玉を磨くものだ。信心とは本心の玉を磨くものだと気付かして頂いたという事と同じ事なんです。 いくらお話を頂いても、いくら拝まして頂いてもです、その教えを本当に守らせて頂こうという心が起こらなかったら、その人の心を磨く事にはなりません。
 してみると、なら、大森さんにしてみれば、その難儀な問題と本当に感ずるという事がです、それは実際は難儀ではないことがわかる。
 大森、改という婦人の心を磨かしたいばかりの神様の願いが、難儀という形が現れておるという事がわかる。いうなら、その難儀は難儀ではない、神愛である。親心であることがわかる。そこでしてみると、その問題の事に対してです、御礼が言えるようにならなければ、いけないですねという事です。
 難儀とこう離れては駄目だ、それは難儀ではない、本心の玉を、信心は磨くものだということがいよいよわかったら、それはもう、難儀は難儀ではないです。
 磨く材料である、親心であり、神愛であり、そのことは苦しいけれども、その事を合掌して受けさして頂くということになってくるのです。
 そういう生き方をいよいよ頂いて、日常生活の上に表して行くことが、いうなら、安東さんの言葉を借りるなら、水も漏らさぬ受けものをつくるという事になる。
 それは大祭が済んだけん、もう粗ろうにしてよい、粗末にしてよいという事はないという事になってくるのである。
 信心は本心の玉を磨くものだということ、信心は本心の玉を磨くものぞやと。本当に信心とは本心の玉を磨くということが信心の真であるという事をわからして頂いてそこを毅然としてそうだとわかったところからです、生活の姿勢というものが変わってくると思うのです。
 沢山信心はしておりますけれども、果して本当におかげは受けておるけれども、本心の玉がどれだけ磨かれたか、というて磨かれていないというのが事実ではないだろうか。そこに焦点をおいていないのだ。不平は不平、不足は不足、苦しいことは難儀は難儀として頂いとるところにです、いつまでたっても、本心の玉が磨かれない。
 磨くために苦しみも、磨かれるための喜びでもないわけです。ここにいよいよぎりぎりの焦点をおいて信心を進めて行かなければいけませんね。
                        どうぞ。